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ヨーガ哲学

ヨーガの目的とは?

ヨーガの目的は何でしょう?

一言でいえば、それは「精神の至福(ニヒシュレーヤサ)」を得ることです。インドのヨーガ行者達は財産も家も捨てて、ニヒシュレーヤサを獲得するために苦行に励んだものです。

ですが、それではインドでは「世俗的繁栄(アビウダヤ)」は軽視されてきたかというと、決してそうではないのです。伝統的なインドの宗教観によれば、人生の目的は、法(ダルマ、社会的正義)、財(アルタ)、愛欲の対象(カーマ)の3つを得ること、まさに世俗的な繁栄(アビウダヤ)に他なりません。実際ヒンドゥー教の崇拝には病気治癒などの現世利益を追求したものが多くあります。

しかしながら、これら世俗的繁栄ばかりではないのがインドの宗教の偉いところです。世俗的な繁栄はきりがないし、たとえば、名誉もお金もあって恋人がいれば幸せかというとそうでもないのは自明のことです。そこで(かどうか知りませんが)以上3つの目的に、後世第4の目的である「解脱(モークシャ)」が加えられました。モークシャとは「解き放つ」を意味する動詞muc(ムチュ)に派生する名詞であり、現世の苦悩から解放されて自由の境地に達すること。つまりは「精神の至福(ニヒシュレーヤサ)」です。仏教をはじめとするインドの宗教のほとんどは「解脱(モークシャ)」を究極の目標としています。インドでは一般の人達の間で現世利益を求める宗教行為が盛んに行われる一方で、知的エリート達の間で「精神の至福(ニヒシュレーヤサ)」の追求が重視されるようになったのです。そして「精神の至福(ニヒシュレーヤサ)」に到達するために彼らが採用した手段のひとつがヨーガだったというわけです。(参考文献:立川武蔵『ヨーガの哲学』講談社学術文庫)

さて、「肩こり・腰痛の緩和、ダイエット、便秘の解消」など、現代人がヨーガを始める動機はさまざまです。「精神の至福(ニヒシュレーヤサ)」が大事なのはわかりますが、凡人にとって、まずは現世のご利益が気になるのは無理もありません。インドでも「精神の至福(ニヒシュレーヤサ)」を重視したのはすでにある程度の「世俗的繁栄(アビウダヤ)」を得ている人たちではなかったか。肩こり解消のためのポーズなどを練習しつつ、究極の目的は「精神の至福(ニヒシュレーヤサ)」だということは忘れないでいたいものです。

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ヨーガ雑学

「ヨガ」か「ヨーガ」か?

“「ヨガ」はあやまりで、「ヨーガ」が正しい”、という説明はいろいろな本、特に学術的な書物でよく目にします。その理由はだいたい以下のようなものです。

サンスクリット語の母音は、a, i, u にはa, ā, i, ī, u, ūというように長母音と短母音があるが、e, oは長母音しかない。だから yoga は「ヨーガ 」というのが正しい。「ヨガ」はあやまりである。

この論法には問題が3つあります。

第一に、そもそも何について言っているのかがあいまいなことです。日本語(のなかでの外来語の表記)として言っているなら、必ずしも原語の発音に忠実でなくてはならないということはないのです。たとえば、「プロフィール」は日本語として定着していますが、原語のフランス語に忠実な発音ということなら「プロフィル」になります。外来語をどのように受容するかというのは、その言語が受け入れやすい形で定着していくものであり、日本語として「ヨガ」が定着しているなら、“間違い”とは言い切れないのです。

第二に、サンスクリットで「oには長音しかないから」という点ですが、この言い方も厳密に言うと正確ではありません。厳密に言えば「長音しかない」ではなく、「長短の対立がない」ということなので、それを日本語で長音(「ヨ-」)とするか、短音(「ヨ」)とするかはあくまで主観的な判断であり、対立がない以上、要するにどちらでもいいのです。実際、多くのサンスクリット語の教科書で、母音のアルファベット表記は a, ā, i, ī, u, ū, e, o というように、eとoには長音の記号をつけていません。(長音ではない、と言いたいのではなく、1種類しかないので相対的に「長いー短い」と決められない、決める必要がないの意)

第三に、それでも原語の発音に近い表記がよいのだと言う立場の人もいるかもしれませんが、果たして日本語で表す場合、本当に「ヨーガ」が正しい(というか、原語に近い)のだろうかという疑問があります。まず、大前提として、そもそも「古代インドのサンスクリット語の発音を正確に知ることはできない」。(『サンスクリット文法』p.5)そして”サンスクリット語の発音”を採録している『ニューエクスプレス サンスクリット語』に付属のCD(テルグ語母語話者とラージャスターニー語母語話者による吹込み)を聞いてみましたが、o の母音をそんなに長く発音していません。日本語で「ヨーガ」と書くと多くの日本人は「ヨ・オ・ガ」と3モーラで発音するのではないでしょうか?少なくともそんな風には聞こえません。あえてカタカナで書くなら「ヨォガ」(2モーラ)ぐらいでしょうか。

結論を申し上げますと、どちらでもいいということではないでしょうか。なので、私は両方使います。主に日本語として使用するときは日本語として定着している「ヨガ」を使い、ややアカデミックな場面では「ヨーガ」を使い、口で言うときは適当に、と思っております。(参考文献:辻直四郎『サンスクリット文法』岩波書店、J.ゴンダ『サンスクリット語初等文法』春秋社、石井裕『ニューエクスプレス サンスクリット語』白水社)

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ヨーガ雑学

アーサナ実践で大事なこと

70年代から80年代にかけて日本にヨーガを普及させた功労者の一人、佐保田鶴治氏は次の8つの条件を挙げています。

(1) ゆっくりと行うこと (2) 動作に関係するおもな身体部位に意識を向けること (3) 動作と呼吸を連動させること (4) 視線をきょろきょろと動かさないこと (5) 緊張と弛緩の交代をはっきりさせる (6) 空腹時に行うこと (7) 直後に入浴しないこと(8) 毎日怠らずに練習すること(佐保田鶴治『ヨーガのすすめ』ほか)

どれも今なお色あせない至言だと思います。

特に(8)は地味だけど重要。私の足ヨガの先生はよく「好きなポーズひとつでいいから、毎日やってね」と言っておられましたっけ。それを信じて、苦手だった「スプタヴィーラーサナ(横たわった英雄のポーズ)」を毎日やったら、初めは拷問のように感じたポーズが、ある日心からリラックスできるポーズになっていることに気がついて、驚いたものでした。

今は佐保田先生の本に「この体操は老人でも危険なくやれます」と書いてある「ウシュトラアーサナ(らくだのポーズ)」を深めるべく、毎日やっております。

憧れのポーズ、「どうしたらできるようになりますか?」の答えはひとつ、「毎日やること」。(自戒の意味を込めて)

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ヨーガ哲学

ヨーガって何?――スポーツや体操との違い

ヨーガとは何でしょう?

ヨーガの発祥は古代インドです。そしてそれは生き方すべて、ライフスタイル、宗教、思想、哲学に関わるものです。

現在世界中でもっとも広く行われているのはハタ・ヨーガといって、ポーズ(=アーサナ)、呼吸、瞑想の3つを大事にします。

ポーズと呼吸だけなら体操やスポーツやストレッチとも共通する部分があります。でも、スポーツでは人と競ったり個人の記録を伸ばすことを目標にしますが、ヨーガでは人と比べてはいけない、必ずしもがんばらなくてよいと言われます。「できること」「上達すること」「がんばること」は第1の目標ではないのです。スポーツの一種と思ってヨーガをやる人が物足りなさを感じたり、何がなんだかわからない、という感想を持つのはそのためです。

また呼吸と瞑想だけなら仏教や禅とも共通しますが、仏教や禅ではつぎつぎにいろいろなポーズをとったりしません。

ただ、仏教や禅、また広い意味での宗教が目指しているものが「精神的な幸福」ということなら、ヨーガも同じです。ハタ・ヨーガでは「精神的な幸福」を得るためにポーズを大事にします。ハタ・ヨーガが世界中で人気なのは、体を動かすということは誰でも実践しやすく、わかりやすく、心地よく、健康によいと実感できるからではないかと思います。

ヨーガを実践するのには特別な道具も、場所も、お金も時間もかかりません。さっそくヨーガの心地よさを体感してみましょう。